戦後裏面史の巨頭「東声会」の真実と町井久之の軌跡【2026年最新検証】
終戦直後の焦土と混乱の中、東京・銀座の街を掌握し、日本の戦後裏面史に巨大な足跡を残した組織が「東声会(とうせいかい)」です。創設者である町井久之(本名・鄭建永)は「銀座の虎」の異名を取り、単なる盛り場の実力者にとどまらず、政財界のフィクサーや日韓外交の影のキーマンとして昭和の権力構造の中枢に深く食い込みました。
当時のプロレス界の英雄・力道山との抜き差しならない盟友関係や、右翼の巨頭・児玉誉士夫、三代目山口組・田岡一雄組長との知られざる力学、そして現代の「東亜会」へと至る組織の変遷は、昭和から令和へと続く日本の闇と構造を映し出す鏡でもあります。2026年の視点から、残された一次資料や関係者の手記、公的記録を徹底的に検証し、その実態を浮き彫りにします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:東声会は1957年に町井久之が結成した在日コリアン主体の組織であり、銀座の治安維持を名目に一大勢力を築いた。
- 要点2:力道山との血よりも濃い絆や児玉誉士夫とのパイプを通じ、日韓基本条約の裏工作など国家規模の案件に深く関与した。
- 要点3:警察の頂上作戦による解散後、「東亜友愛事業組合」を経て現在の「東亜会」へと改編され、六本木を拠点に独自の歴史を刻んでいる。
【起源と軌跡】東声会歴史と「銀座の虎」町井久之の波乱に満ちた経歴
東声会の歴史を紐解く上で、創設者・町井久之(まちい ひさゆき)の特異な生い立ちとパーソナリティは切り離せません。1923年(大正12年)に東京で生まれた町井は、戦前の過酷な差別と混乱期を生き抜くなかで、独自の腕力と類まれな統率力を身につけていきました。明治大学専門部法科に学び、インテリジェンスとストリートの凶暴性を併せ持った彼が頭角を現した舞台こそ、終戦直後の東京・銀座でした。
終戦直後、治外法権的な立場を背景に盛り場で勢力を拡大していた一部の三国人グループに対し、町井は自警団的な愚連隊組織を結成。銀座や新橋の商店街・飲食店主たちからの信認を取り付け、不法占拠や恐喝を力で排除していきました。この圧倒的な武闘派ぶりと銀座一帯を瞬く間に平定した手腕から、町井はいつしか「銀座の虎」と畏怖されるようになります。
1957年(昭和32年)、町井は銀座や上野、浅草などの下部組織を統合し、正式に「東声会」を結成しました。結成式は当時の日比谷公会堂で大々的に行われ、約1,500名もの構成員が集結したと伝えられています。在日朝鮮人・韓国人青年層の受け皿として機能しながら、単なる暴力組織にとどまらず、興行、不動産、飲食業など多角的な利権構造を確立していきました。

【歴史的盟友】東声会と力道山の絆|昭和プロレスの熱狂を支えた裏の力学
戦後日本のスーパースターであった国民的プロレスラー・力道山(百田光浩/金信洛)と町井久之の関係は、興行ビジネスの提携という枠を遥かに超えたものでした。共に朝鮮半島にルーツを持ち、出自を公にできないまま昭和の頂点へと駆け上がった二人は、孤独と野心を共有する魂の盟友だったと当時の関係者は述懐しています。
力道山が日本プロレス協会を旗揚げし、全国巡業や海外大物レスラーの招聘を本格化させる際、その興行の保安と利権管理を一手に引き受けたのが東声会でした。特に赤坂の高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」や、町井が深く関与していた銀座のクラブ街は、彼らが夜ごと巨額の資金と戦略を動かす密談の場となっていました。
1963年(昭和38年)12月、力道山が赤坂のナイトクラブで住吉一家傘下の組員・村田勝志にナイフで刺され、その後に急逝するという激震が走った際、町井が見せた激昂と迅速な沈静化の動きは、裏社会におけるパワーバランスを決定づけました。報復による全面戦争を回避しつつ、盟友の遺志を継ぐ形でプロレス興行の秩序維持に動いた町井の存在感は、戦後芸能・興行史においても特筆すべき一幕です。
【政財界の黒幕と広域組織】児玉誉士夫の仲介と東声会山口組関係の力学
東声会が東京の一ローカル組織から国家規模の裏面権力へと飛躍した最大の契機は、戦後最大のフィクサーと称された児玉誉士夫との結託です。冷戦構造下、反共産主義運動を推進していた児玉にとって、規律正しく動員力のある町井の東声会は極めて有用な実動部隊でした。
児玉の仲介により、東声会は関西を拠点に全国制覇を進めていた「三代目山口組」の田岡一雄組長と接触します。当時、東京進出を狙う山口組と関東の伝統的博徒・テキヤ組織との間には一触即発の緊張が走っていましたが、町井と田岡組長は兄弟盃を交わし、緊密な友好関係を構築しました。この東声会山口組関係の成立により、東声会は関東における山口組の最も強力な同盟者としての地位を確立したのです。
さらに町井の政治的影響力は国境を越え、1965年(昭和40年)の「日韓基本条約」締結の裏舞台でも発揮されました。韓国の朴正煕政権と日本の自民党首脳陣、そして児玉誉士夫を繋ぐパイプ役として町井が果たした調停機能は、公的文書には残りにくいものの、昭和裏面史における決定的な事実として現在も語り継がれています。

【データ比較】東声会から東亜会への組織変遷と歴代会長の系譜
1960年代半ば、警察庁による第一次「頂上作戦」の猛烈な打撃を受けた東声会は、1966年(昭和41年)に一度解散を表明します。しかし翌1967年、町井は合法的企業体を標榜する「東亜友愛事業組合」を設立し、実質的な組織の再構築を図りました。その後の半世紀にわたる変遷をまとめたのが以下の比較データです。
| 組織名・時代 | 代表者(歴代トップ) | 主な活動形態・特徴 | 編集部の分析・位置づけ |
|---|---|---|---|
| 東声会 (1957年〜1966年) | 初代会長:町井久之 | 銀座・新橋を中心とする繁華街支配、興行権の掌握、最盛期約1,500名 | 武闘派愚連隊から広域勢力へ拡大。日韓交渉の影の実力者として君臨した黄金期。 |
| 東亜友愛事業組合 (1967年〜1980年代) | 理事長:町井久之 (後代:木下陸男ら) | 表向きは親睦・企業組織へ改組。TSK・CCCビル建設など巨額不動産事業へ進出 | 警察の取締りをかわす「企業舎弟」「フロント企業化」の先駆け的モデルケース。 |
| 東亜特別興業〜東亜会 (1980年代〜2000年代) | 二代目:木下陸男 三代目:金海芳雄 | 指定暴力団制度の導入に伴い、独立組織としての再編と引き締めを推進 | 町井の第一線退陣と死去(2002年)に伴い、伝統的な任侠・地下組織へと純化。 |
| 現在の東亜会 (2010年代〜2026年現在) | 歴代会長:松山政雄 (現最高幹部陣による統括) | 東京都港区六本木に拠点を維持。暴力団排除条例下での少数精鋭・静観体制 | かつての巨大利権は大幅に縮小したものの、他団体と一線を画す独自勢力として存続。 |
【実態検証】東声会本部と六本木TSKビルの栄華|現場目線で見えたリアル
東声会および町井久之の権勢の頂点を象徴したモニュメントが、かつて東京都港区六本木にそびえ立っていた複合商業ビル「TSK・CCCビル(東亜相互企業ビル)」です。1973年(昭和48年)に完成したこのビルは、敷地面積数千坪に及ぶ広大な敷地に、高級ナイトクラブ、レコーディングスタジオ、サウナ、会員制サロンなどが詰め込まれた昭和の巨大社交場でした。
当時の報道記録や関係者の証言によると、TSK・CCCビルの落成記念パーティーには、自民党の大物政治家から大企業のトップ、芸能界のスター、さらには大韓民国の政府高官までが列席し、町井の築き上げた人脈の広大さを世に見せつけました。警察当局はここを「東声会の巨大な資金源であり本部機能の一翼」と警戒視しましたが、町井自身は「合法的実業への完全な転換」を主張し続けました。
しかし、1970年代後半からのオイルショックや放漫経営、東亜相互企業の倒産、さらには町井の側近を巻き込んだ詐欺・手形乱発事件によって、その巨塔は次第に傾いていきます。現在、この巨大ビルは完全に解体され、六本木の街並みも再開発によって一変しましたが、現在も東亜会の本部拠点が六本木エリアに置かれている背景には、この時代の残り香が色濃く漂っています。

一般に知られていない盲点とネットの誤解
インターネット上の掲示板やSNSでは、東声会に関して事実と異なる都市伝説がしばしば独り歩きしています。正確な歴史認識のために、代表的な3つの誤解を正しておきましょう。
誤解1:単なる山口組の東京支部(下部組織)だった?
これは完全な誤りです。東声会は結成以来、一貫して独立した指揮系統を維持してきました。田岡一雄組長と町井久之が結んだのは「五分の兄弟盃(対等の関係)」であり、山口組の傘下に入ったことは一度もありません。むしろ、山口組が関東へ進出する際の「最も頼りになる対等なアライアンス相手」という位置づけでした。
誤解2:最初から最後まで暴力団組織として活動していた?
実態はより複雑です。町井久之は1966年の解散以降、観光開発、海運(釜山と下関を結ぶ関釜フェリーの利権関与など)、不動産など、徹底して合法的ビジネスへの脱皮を図りました。もちろんその資本や圧力の源泉に裏社会の力が存在したのは事実ですが、「実業家としての町井」と「組織の首領としての町井」の二面性を理解しなければ、この組織の本質は見えてきません。
【プロの結論】戦後裏面史・在日社会の構造から見出すべき教訓
社会学や歴史学の視点から東声会を分析すると、この組織の台頭と衰退は「戦後日本の法制度の不備と復興の歪み」が生み出した必然的な現象であったことが分かります。終戦直後の混乱期、国籍や身分が不安定であった在日コリアン社会は、制度的包摂から排除されていました。その中で自らの権利と生活圏を防衛するための「暴力装置」として立ち現れたのが東声会の原型です。
しかし、高度経済成長とともに法治国家としての警察機構が確立し、暴排関連法令が整備されていく過程で、そうした非合法・超法規的組織の存在余地は必然的に失われていきました。東声会から東亜会への変遷は、昭和の混乱から令和のコンプライアンス社会へと至る、日本の治安・経済構造の成熟プロセスそのものを物語っています。
【東声会】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:東声会と現在の「東亜会」は何が違うのですか?
A1:組織の名称と規律の形態が異なります。1957年に結成された「東声会」は1966年に解散し、翌年に「東亜友愛事業組合」として再編された後、最終的に「東亜会」へと改称されました。かつてのような1,500名規模の威容はなく、現在は東京都公安委員会から指定暴力団として指定を受けつつ、六本木を拠点に少数精鋭で活動を継続しています。
Q2:町井久之はなぜ「銀座の虎」と呼ばれるようになったのですか?
A2:終戦直後、無法地帯化していた銀座・新橋エリアにおいて、圧倒的な武力と統率力で対立勢力を制圧し、銀座の治安と縄張りを瞬く間に平定したことから名付けられました。単に凶暴なだけでなく、高い知性と実業感覚を併せ持っていた点もその異名を不動のものにしました。
Q3:力道山との関係において金銭的なトラブルはあったのですか?
A3:二人の間には莫大な興行資金が動いていましたが、個人的な信頼関係は終生強固でした。力道山が刺された事件の直後も、町井は病院へ駆けつけ、盟友の身を案じ続けました。力道山の死後、プロレス利権を巡る様々な思惑が飛び交う中でも、東声会は力道山一族への配慮を怠らなかったと記録されています。
Q4:東声会が日韓関係に深く関与できたのはなぜですか?
A4:創設者の町井久之が在日韓国人社会で絶大な影響力を持ち、同時に日本の政財界フィクサー(児玉誉士夫ら)や自民党首脳と太いパイプを持っていたためです。国交正常化前の公式外交が難航する中、水面下の民間調停者として日韓両国首脳から重宝されたという歴史的背景があります。
まとめ:東声会が戦後日本と現代社会に残した歴史的足跡
戦後の廃墟から立ち上がり、繁華街の利権を制覇し、やがて国家間の外交や巨大ビジネスにまで影響を及ぼした「東声会」。その中心にいた町井久之という怪物は、昭和という時代の光と影を一身に背負った象徴的な人物でした。
暴力と興行、政財界の結託という暗部を持ちながらも、時代の要請の中で生まれたその足跡は、2026年の現代においても戦後社会システムを理解するための不可欠なピースです。昭和の裏面史を単なるノスタルジーやゴシップとして消費するのではなく、国家と裏社会、マイノリティの生存戦略という構造的な視点から見つめ直すことが、現代の私たちに求められています。 (出典: 東 声 会(Yahoo!ニュース))